2012年7月23日月曜日

かけがえのない命なんて

去る2012年7月20日、母方の祖父が亡くなった。
これに伴い、21日に通夜、22日に告別式が房総の某所にて執り行われ、参加してきた。

享年83。
急性心不全で、苦しむ間もなく息を引き取ったという。
庭いじりを日課とし、ウイスキーと煙草を嗜んでいた祖父が、急に亡くなるなんて夢にも思わなかった。


今まで二等親以内の死に際したことがなかった僕は、現状を受け止められたようで受け止めきれていないような、どこか釈然としない気持ちで一連の葬儀に参列していた。
他の親族が棺桶を囲んで啜り泣く中、一縷の涙も流さぬまま遠巻きから物言わぬ祖父を眺めているだけ。
悲しくないわけじゃない。でもいとこが皆
そうするように僕も泣き顔を見せるのはなんか違う気がする。だから僕は泣かない。
そんなよくわからない理屈を頑固に貫く馬鹿な自分にも辟易し、電車で二駅も降り損ねるほどぼーっとしながらも今夕帰路に着いたのだった。


元来、僕は家族や親族の集まりが嫌で仕方なかった。
あそこは、否が応でも自分のことを話さなくてはならない。
自己開示が得意でないのに、ましてや血のつながり以外は他人でしかない親族に話しかけられても、何を話したらいいかわからなくなる。
その中にあって、口数少なく、されど優しく接してくれた、昔気質の男らしい祖父の存在は僕にとって非常にありがたかった。
今回も似たようなもんだ。普段から祖父に積極的に話しかける自分の兄弟やいとこが嗚咽したり、亡骸に声をかけたりとするなかで、僕は顔を見るだけ。これがいつも通りであり、僕にはそれしかできないのだ。


もちろん悲しかったし、泣きそうにもなった。
50年以上連れ添った夫に最後まで声をかけ続ける祖母を見ては、
故人の長男である伯父が普段は寡黙なのにこの日ばかりは冗談を飛ばしたりやけに饒舌になっているのが強がりだろうと察しては、
僕の心は激しく揺さぶられた。でも押し殺した。
親族の前での振る舞いとしては、それしか知らないからだ。
なんとも居心地の悪い空間の中、14,5離れた幼いいとこと遊んで気を紛らわすのが精一杯だった。


そして独りの時はいろいろ考えた。
「じいちゃんもきっと喜んでるよ」みんなが口を揃えていう言うのはなんだか茶番だなと思ったこと。
自分が死んだら葬儀もしないでさっさと荼毘に付してほしいと思ったこと。
偲ばるるに及ばないくだらない人生をくだらないほど真面目に全うしようと思ったこと。
これらの考えたこともいつかそのうち気移りして忘れていくんだろうなということ。
結局それは根拠なく世の中をなめきってるいつもの自分と変わらないんだなということ。など。


だが、一つだけいつもと違うのは、かけがえのない命なんてものはあるんだな、ということだ。
今回伯父から聞いて初めて知ったことだが、祖父は若い頃戦時中に特攻隊に志願したが、背が低かったために返されてしまったらしい。
もし祖父の背がもう少し高かったら特攻隊となって60年以上前に太平洋の藻屑と化していただろう。そうなると当然僕も生まれていなかったに違いない。


嗚咽しようが話しかけようがもう祖父が生き返らないのと同じで、泣いても笑っても僕はこの世に生を受けてしまったのだということを、この歳になるまで全く理解していなかった。
とんだ茶番じみた人生だと自らの短い半生を振り返って、いよいよ泣く気も失せてしまったのであった。


生前より、死ぬ時は苦しまずポックリといきたいと語っていた祖父が本当にポックリと急に亡くなったので、苦しむ姿を見なくて済んだのが不幸中の幸いかもしれない。
子5人、孫12人、曾孫2人という多くの子孫に囲まれ、僕のようなどうしようもない馬鹿者にも優しくしてくれた祖父を、忘れることはない。
明日は我が身。ポックリいってしまうその日まで、茶番のような人生をくだらないほど真面目に全うしたい。


おじいちゃん、今までありがとう。
本当にどうしようもないこの駄文を捧ぐ。

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