2014年12月2日火曜日

人生は茶番 その2

人生は茶番である。

これは僕の座右の銘であり、精神衛生のための合言葉であり、何より僕が僕の人生というものに対していかに不真面目であるかを示す言葉でもある。

茶番とは、アレだ。他愛もない、馬鹿馬鹿しい、わざとらしい、浅ましい、滑稽な芝居。
笑点とかでたまに見られるアレだ。
政治家や大企業が得意なアレだ。飲み会の場で、ビール片手に繰り広げられるアレだ。
どんな真面目も、どんな不条理も、見事に茶化してしまうアレのことだ。


なんとなく久々にブログを書きたくなってEvernoteに書き溜めていっていたけれど、書き溜めれば書き溜めるほど、どんどん収束に困る文章しか残らない。
どうせロジカルな文章なんて書けやしないんだから、いっそのこと、あんまり考えすぎないでエイヤっと書きなぐっちゃったほうがいいなと思い立って、1年半前に更新が止まったブログは放置して、柄にもなくnoteをノリで登録してみた。(そしてこんどはそれをbloggerに移し替えた。)
文章なんて支離滅裂くらいがちょうどいいんだ。そんなわけで、まずは手始めに人生茶番論から説くことにする。


人生は茶番である。
なぜなら、人は決まって、計画と結果のギャップに苦しんだ挙句、無意識のうちに、他愛もなく、わざとらしく、浅ましく、滑稽な芝居へと没入していくからだ。
その証拠に、大半の人間が一定の齢を取ると、決まって次の二言を吐く。


「しっかりと人生の計画を建てた方がいい」


「人生何が起こるかわからない」



人生何が起こるかわからないのに、あれこれと計画を立てて結果を変えようとする。
確かに結果は変わるかもしれないが、必ずしも思い通りの結果にはならない。
その事実をわかっていながら、なお矛盾に抗おうとする。
これを茶番と呼ばずしてなんと呼ぶか。


計画も結果も、どっちが正しくて、どっちが間違っているなんてこともない。どっちも肯定する。
茶番だと割り切ることで、矛盾もろとも腹の中へとストンと落ちていく。
あらゆるものを肯定するのが、茶番の極意である。
バカボンのパパよろしく、「これでいいのだ」と言い聞かせて、消化するのである。


僕はお笑い芸人でもなければ、世捨て人の類でもない。
ごく一般的なヒラの会社員である。
しかしながら、自分の人生が茶番であるということに関しては、誰よりもよく考えていると自負している。


でも他人の人生が茶番だとは思わない。
というか、あまり他人の人生に興味がないのかもしれない。

当たり前のことだが、人によって人生観は違う。
だからその人がどう生きようとその人の人生観に従って生きてるだけなので、それを茶番とか言うのはそれこそ茶番である。
一時的に他人の人生に興味を持ったとしても、お腹がすいたり眠くなったりしたら他人の人生って案外どうでもよくなるものである。
自分の腹を満たすことに精一杯であるほうが、より人間らしい。
こういうところがとても茶番らしい滑稽さを持っていると思う。


人生を茶番とする視座は、常に自分から自分の人生に向けられている。
僕は自分の人生を見つめた上で、人生を茶番だと断言するのである。
こんな四半世紀も生きていない小僧に茶番だなんて断言されるのだから、やっぱり人生は茶番に違いない。

人生は茶番である。
これはオプティミズムのスローガンでもなければ、ペシミズムに浸るための言葉でもない。
むしろそんなのはどうでもいい。
ただただ、人生という滑稽な芝居に一人打ち込んでいたいだけ、というだけなのだ。
お酒を飲んで、茶番をやって、ゲラゲラと呵々大笑する。それでいい。


このnoteも、そんな茶番の一片である。
とりあえず、書きたいことを書くだけのnoteである。
またくだらないこと書いてんなぁと生暖かく見守っていただければ幸いである。